ニセモノの良心

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2007年 07月 18日

鴻上尚史を見直してみよう

いま、各局の決算にざっと目を通しているところ。といっても手に入る分だけだけど。
結構な赤字局の数だけど、なんだか「作られた赤字」のよな気がしないでもないなぁ。
またまとめてエントリにします。




さて、まとまりきらない僕は、また趣味に走るよ。
題して「鴻上尚史を見直してみよう」

第三舞台の主宰・演出。
自ら「演劇の世界では帝王」と言っても許されちゃうほどの才能と興行成績を残していたものの、
イギリス留学から帰ってから、第三舞台を10年封印し、鴻上ネットワークは「なかったこと」にされ、演劇シーンから忘れられたっぽくなっている鴻上尚史。

しかし、今こそ彼の才能を引き出すべきではないか。
それは演劇界ではなく、IT界が。


というのは、彼は偉大なる予言者なのだ。


彼の処女作は「朝日のような夕日をつれて」。「ゴドーを待ちながら」を下敷きにした「明るい虚無」としか言いようのない作品。名作。
これの再演版「朝日のような夕日をつれて91」。その名の通り91年の作品なんだけど、驚くべきことに「セカンドライフ」と全く同じ概念のテレビゲーム「イデアライフ」を打ち出し、芝居の真ん中に据えている。
90年発売の「スーパーファミコン」からの着想だと思われる(スーファミと電話回線で実現可能だという設定。)
さて、90年のはじめに誰がスーパーファミコンをみて今のセカンドライフを思いつけるかって話だ。
さらに彼は94年上演「スナフキンの手紙」ですでに「2ちゃんねる」の存在を描いている。



これも彼の言葉だが、理系の人間と文系の人間というのがいるとして「こういうのができる」と理系が可能性を作った後に、「じゃあこの新しい道具で何か面白い遊びを考えよう」というのが文系。

彼は、スーパーファミコンという理系の作ったハードから、セカンドライフを見通せた。
それでは今の飽和状態の世の中で、彼は、どこに次なる遊びの可能性を見つけるのだろう?














ITを僕達は、主としてコミュニケーションの道具、繋がりあうことのために使用してきた。
先端のテクノロジーに乗せるインフォメーションは、一番原始的な欲求だ。今までも、そしてきっとこれからも。
そしてどこまで技術が進んでも、「言葉は想いに足りない」。

そこの物悲しさ、それでも前に進んでいくことが、鴻上の「虚無」の根源なのかもしれない。


朝日のような夕日をつれて冒頭。


朝日のような夕日をつれて 僕は立ち続ける
つなぎあうこともなく 流れあうこともなく
きらめく恒星のように
立ち続けることは苦しいから
立ち続けることは楽しいから
朝日のような夕日をつれて ぼくはひとり

ひとりでは耐えられないから
ひとりでは何もできないから
ひとりであることを認めあうことはたくさんの人と手をつなぐことだから
たくさんの人と手をつなぐことはとても悲しいことだから
朝日のような夕日をつれて
冬空の流星のように ぼくは ひとり
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by soulwarden | 2007-07-18 02:48


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