ANA国内線【PR】
2005年 05月 29日
実名匿名の話
実名匿名の話が一時期話題になっていたので、忘れた頃にちょっと乗っかってみる。
論点は2つ。
A リアルを担保することによってブログの信頼性をあげようとする「剥がれる仮面理論」は正当か?
B 「実名でなければブログなんかやめてしまえ」との主張は正当か?



まずAから、この問題はさらに論点が2つに分かれる。
a、果たして有効に機能するのか?
b、倫理的正当性は?


 まず有効に機能するかということ。
 リアルを担保することによって、これで困る人は責任を持った発言しかしなくなる。
しかしながら、リアルを晒せれても平気な人からは、何も担保されえないこととなる。悪意のAAはとまらない。
さらに、コメントスクラムといった現象は、各個人が一斉に「議論」を吹っかける行為である。
各個人にとっては責任を持った議論行為なのだ。別にリアルに言及されたところで痛痒は感じない。
 つまり、リアルを担保したところで止められる行為は
「リアルに言及されれば痛い人からの誹謗中傷及びAA」くらいなのだ。
そしてそのくらいだったらサイトポリシーを明確にしとけば対処可能な話だ。

 次に倫理的正当性。
 リアルに追求できるシステムを作るのは簡単だ。アーティテクチャを変更しさえすればよい。
でも、それはやっていいことなのだろうか?
個人が個人のリアルを追求できるというシステムは、正直ブレーキがない。
極端な話、「議論に負けたからこいつのリアルを晒してやる」といった使い方が許される。
じゃあそのブレーキは第三者機関に委ねる?でもそれは現状の司法システムにおける担保とどう違う?
このシステムの行き先は「個人を晒すものは晒されるとの恐怖感の睨み合い」という均衡点だ。
冷戦中の核バランスと一緒。魅力など欠片もない。
それか、リアルが晒されて痛くない人同士のコミュニティと化するか。
僕はリアルが晒されたら痛いので、そこにはいられない。
「皆様短い間でしたがありがとうございました。僕はこの狭量なコミュニティーでは許されない存在らしいです。さようなら。」




続いてB 「実名でなければブログなんかやめてしまえ」との主張は正当か?
 これは上の倫理的正当性の話とも被るけど。
 まず大前提として、インターネット上で発言する際には、ネットを設計した人がアーキテクチャ上匿名を許容したという事実(彼らはそれを例えば免許制にすることも出来た)とその背景にある思想を考慮に入れるべきでないかい?と思うわけですが。

匿名でないと言えないこともある。リアルに言及されると通らない優れた意見もある(お前が言うなみたいな)。
身元が分かると危険だと考える人もいる(特に女性は深刻だ)。
そして、匿名の存在が許されないということは、それらの意見も世に存在しなくなってしまう。

少なくともドクター苫米地は優しくない。匿名でなければならない人の存在を忘れ、
自らの提唱されるモラルでばっさり二分される。
しかし、ドクターも言われるようにこの世の9割以上が匿名ブログなのだ。
そんな中ではドクターが提唱されるモラルは「うちの庭特殊ルール」に過ぎない。
そして匿名切捨御免ルールは、9割の中に宿る宝石よりも貴重な意見をも切り捨てることになるのだ。
ネットの特性であり長所なのは視点が沢山確保できるということ。その長所を自ら捨ててしまわれている。
なんというか・・・もったいない。僕が言う事ではないけど。



AもBも同じ。大体のところ、リアルに担保されなければ発言に信頼性を与えられないという発想がおかしいのだ。
ネットでは、情報の信頼性とはリアルに担保されるのではなく、自らが確かめるものだ。
僕は匿名だ。理由は前に書いた。生活の糧を失う危険性を高めたくない。
でも、僕は自分の表現の立ち位置を示して、それに対する言動責任はきちんと果たそうと思っている。
だから僕の情報の信頼性は、読まれる方が判断すればそれでいい。


今のところ、たいしたことは書けていないけれど。



by soulwarden | 2005-05-29 15:50 | 日常


<< モラルの乱れ      ブログはオルタネィティブなマス... >>